前回、本来通過儀礼的な目的を持つ伝統的な祭事が、外部との接触の増加や時代の変化によって変容したことについて説明しました。
今回は、参加した男性たちに焦点を当てて、近現代の裸祭りについて考えていきます。
①でお話したとおり、「裸体になる」ことには、思春期特有の裸体への強い羞恥心に打ち勝ち、大人として、一人前の男として成長した姿を神と集団に対して表明する目的があったと考えられます。
そして、近年になって生じた変化、「女性見物人の増加」。
羞恥心に打ち勝ち、オトコを見せるのが通過儀礼の目的であるならば、それが女性の前だろうが何だろうが己をさらけ出すのが筋というものかもしれません。しかし、「外部の女性」に見せる、というのは本来の目的から考えるといくらか外れていると言わざるを得ないかもしれません。古代における「集団」とは、生活集団のことであり、地域の中だけで完結する社会集団であったわけです。そのため、他の地域の女性は集団の外の人間であり、そのような人間の目があることは想定されていなかったでしょう。
それはさておき、実際に参加する男性のことを考えてみると、どうでしょう。
男性に見られるのと、女性に見られるのとではワケが違います。しかもそのような場にわざわざ来る女性たちは、儀式そのものを見に来たのではなく、裸体、特にアソコを見るために来ていることが多いわけです。大人数の女性の前で裸体を晒すのですから、男の中の男であっても、萎縮してしまうものでしょう。
なぜアソコを見に来るのか。品定めをしているのかもしれませんし、ただ単に面白がっているのかもしれません。もちろん中には真剣な参加者としてその場に居る人もいるでしょう。なんにせよ、参加している男性、特に若い男子にとっては、若い女性の目は恥ずかしいものには変わりないはずです。
ここで、ネット上に投稿されていた、実際の参加者の方の体験談の一部をご紹介。
その方は10代後半の方で、初参加であったそうですが、なんと同級生の女子が見物人の中に居たそうです。そして、ガッツリアソコを見られた挙句、「○○くーん」なんて名前を呼ばれ、写メを撮られたそうです。
これは、そういう趣味を持つ人間でもなければ地獄ですね。CFNMモノの創作でしか見ないようなシチュエーションが、現実に繰り広げられていたのです。
通過儀礼は、言い換えれば「試練」。子どもから大人になったことの証を得るために、過酷な状況に堪えることを求めるものであったはずです。しかし、果たして古代の人々は、ここまでの過酷を求めたのでしょうか。おそらく想定外でしょう。
そもそも男が男らしさを見せるための儀式であったはずが、女性にアソコを品定めされたり笑われたりする、言うなれば女性優位的な、どこかSM的なイベントへと変貌したのです。
そのへんを考えると、最近になって着衣可になったり、そもそも祭りそのものが消えたり、形が変わったりしたのもやむなしと言えるかもしれません。